愛 ふり返る時 難病患者・命を賭けた10年の記録  山田富也著

筋ジストロフィー、同病の兄二人は、33歳、34歳でこの世を去った。失意の中私は多くの支援者に支えられ、再び歩き始めた。兄の無念さ、憤りが再び私を奮い立たせ、自立ホーム設立という難事業に立ち向かわせている。作家の澤地久枝さんは、「兄二人が言えなかった事を、もっと伝えなければ…」と折りに触れ忠告して下さる。その言葉を胸に、精一杯残された時間を大切に、私なりの人生の足跡を残していきたい。 

言えなかったありがとう   福田素子 作画  早野香寿代 原作

『筋ジストロフィーを抱えて それでも私は生きる、ありのままに…。』(素朴社刊)は、亡き両親に伝えられなかった感謝の気持ちを綴った私の半生記である。この本を漫画にしたいという福田夫妻に会うことになる。どう脚色されても構わないけれど、お涙頂戴だけにはならないようにして欲しい。その事を胸に私は先生たちと逢った。ご主人から「面白かったですよ」と、漫画にしたいと思った理由を伝えられた。「泣きました」「感動しました」「元気をもらいました」という感想は今まで山ほどもらったが「面白かった」と言われたのは初めてだった。「面白いというのは笑えるという事じゃなくて、この本を読んでいくとあなたの自立の過程が見えてくるのですよ。障害があるとかではなくて、一人の女性の生き様の中にね。今、自立できない人が多いから、漫画にしてみんなに自立について考えて欲しいのですよ」この言葉に私は、この人なら心配ないと感じたのである。

5000匹のホタル  松下竜一:作   今井弓子:絵

大分県大分市に、《あけぼの学園》というろう児施設があります。そこを取材してこの小説を書きました。これは小説なので、作中の学園名も、《あかつき学園》と変えています。《あけぼの学園》を訪ねても、梶木先生はいません。百合子さんも、正子さんも、幸枝さんも、一夫君も、松二君もいません。でも似たような先生や似たような生徒はたくさんいるでしょう。そして、学園の前庭には、耳形泉水も、耳の碑もあります。観音様も立っています。作中の蛍の行事も、この学園と竹田の明治小学校を結んで続いています。私がこの小説を書こうと思い立ったのも、蛍の行事を新聞記事で知り、感激したからでした。

全身うごかず 筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡  山田富也

平成1144日に私は47歳になる。この本のタイトルのとおり、私は話すこと、わずかな握力で電動車椅子のレバーを操作することが辛うじてできるが、その他はまったく動くことができない。しかし、生きている。生かされている。私がここまで生きて来られるとは、私にしても両親にしても、あるいは誰も予期できなかったと思う。筋ジストロフィー症と診断を受けた時、私は何も分からなかった。入院した時も同病の兄たちが生きた道を必死になって、離れまいとして生きてきたと思う。残された時間を食いつぶすように、がむしゃらに生きたときもあった。そして、兄たちを失い、新たな家族を得て、私は生きることに貪欲になった。自分の力で生きてきたという思いから、家族や仲間に助けられ生かされていっても良いと思うようになった。しかし、そんな中にあっても自分が果たすべき役割だけは怠ってはならないと、自分を奮い立たせながら生きてきた。夢を語り合った兄たちをはじめ、亡くなった多くの仲間たちへの生きることへの執念を残された者として語り続けること。そして、筋ジス患者として生きる使命を与えられた私が生きてきた人生の記録を書き残すことが、私の役割だと思うのである。同じことを繰り返し語っているのかも知れない。しかし、同じ思いを時代の変化の中で言葉や表現を新たに語り続けることが、語り部としての役割だとも思っている。 

車椅子の青春(2002) 詩集 難病患者たちの魂の詩     ありのまま舎

詩は多くの場合、思いを凝縮させ、言葉を選び抜く苦しい作業を伴います。しかし、鼻歌でもうたうような軽くて明るい詩に、苦い涙と生きることへの熱い渇望が潜んでいる事もあります。それが散文とは異質の詩の世界であり、体力はなくても、考え、また感じることのできる人たちの表現方法として身近なものになる可能性を持っています。21世紀は「いのち」の世紀であるべきと思います。ここに作品を残している若者たちのうち、何人かはすでに彼岸の人です。人は去っていってもその思いを託した作品は生き続けるのです。

わたしの体ぜんぶだいすき   先天性四肢障害児父母の会

この本を書いたのは、5歳から小学校6年までの100人の子どもです。「先天性四肢障害児父母の会」に入っています。私たちは、生まれつき指が2本の子、3本の子、手が肘までの子、足がかかとまでの子、耳が小さい子と、一人ひとりみんな違っています。幼稚園や保育園、保育所、小学校に行っていて、放課後は学童クラブで友だちと遊んだり、家でゲームをしたりしています。私たちの事を知らない人が多いようなので、もっと知ってもらうために、それぞれなんでも好きな事を書いて、本を作ることにしました。 

盲導犬フロックスとの旅    福沢美和 著    田中槇子 絵

盲導犬とその主人との関係、それは、親子でもなく夫婦でもなく、友達でもなく、この世の中で一番素晴らしい繋がりではないだろうか。11歳を過ぎたフロックスが何時までも元気で私の目の友達として、仲良く、楽しく続けられる事ができるようにと祈るばかりである。フロックスが私の盲導犬になった頃に比べると、現在は、一般の人が盲導犬の事をずいぶん知ってきたと思う。しかし、盲導犬と歩いている視覚障害者にどのように接したらよいかということは、まだあまりわかっていないのではないだろうか。そんなことがごく自然な形で人々の心に溶け込んでくれたならば、という願いでこの本を書いたのである

わたしたちのトビアス 大きくなる  ボー・スドベトリ:編 トビアスの兄弟:文・絵 ピヤネール多美子:訳

トビアスが2歳になった時、ママがなくなりました。トビアスは小さくてママのことは覚えていないと思いますが、私たちにはどんなに辛い事だったか。前作を書こうと言い出したのは他ならぬママでした。ママの意思を引き継いで、これからもトビアスについて書き続けていきたいと思っています。私はトビアスのパパのボーです。トビアスから僕は大切な事を学びました。それは、障害児と健康な子どもたちとの間には、一般に思われているほどの違いがないという事です。トビアスが何かを一つひとつ覚えていく様子を見るのは、僕たち家族にとって、胸がわくわくするような出来事です。トビアスは、他の子どもより発育が遅いし、何をするのにも時間がかかります。でもトビアスが他の子より面倒だということはありません。 

夢色の絵筆   遠藤町子 ハンディキャップをのりこえる少年画家・浅井力也の物語

リッキーが絵を描くこと、あたたかな色が、絵筆から、そして、キャンパスからあふれ出し、見る人の心は、きらきらと輝きだす……。生まれつき、からだに障害を持ちながらも、絵を描くことで、自らの命を燃やし続ける、少年画家・浅井力也。愛と勇気に満ちた、一人の少年の歩みを、丹念に描くノンフィクション。 

ある「超特Q」障害者の記録    村田 実 遺稿集

この人の生涯はまるごと奇跡そのものでした。生まれてまもなく日本脳炎のため全身が動かなくなり、自分で立つことも手でものを取ることも経験することもなく、その生涯を終えていきました。にもかかわらず、持ち前の明るい性格と人なつこさ、いつもプラス志向の発想と行動力、貪欲な生活欲とゴージャスな趣味の数々。そうした類まれな生きざまがたくさんの友人を編み出しました。最重度の障害者としては先駆者的な一人として地域で在宅生活への道を切り開いたのも、人をひきつける彼の強烈なパーソナリティぬきでは考えられなかったとも言えるのではないだろうか。 

死亡退院  生きがいも夢も病棟にある  清水哲男

轟木敏秀 筋ジストロフィー デュシェンヌ型 平成10832327分 死亡確認、医師U 直接原因 拡張型心筋症 死亡退院。10代の頃は治るかも知れないと思っていた でも、同じ仲間が死んでいく 僕もやがて ああなっていく 目をそらしたらいくらでもそらせるけど でもそんな自分を誰が認めてくれるだろうか たとえ どんな姿をしていても人間の自分 ワープロ、テレビ、ナースコール、照明、反射鏡を操作するために残された左手で24時間握り続けるパソコンスイッチ 寝たきりでも 僕なりのライフスタイル 確かにできることがだんだん少なくなってきた でも失ってきっと何かを取り戻している まだきっと何かできることがある  生きることへのひたむきさなのか、虚勢なのか? 彼のあるがままの姿に著者が迫る。

障がいって、なあに? 障がいのある人たちのゆかいなおはなし オードリー・キング 絵・文 久野研二訳

移動に車椅子を使う事、体に障がいの無い人から介助を受ける事、そして車椅子に乗って毎日何気ない仕事をする事.そのどれもがとても愉快な出来事をもたらしてくれます。でも、障がいの無い人がそれらを笑う事はめったにありません。障がい者に起こる事は、障がいの無い人にとっては楽しい事ではなく、たいていは、緊張や居心地の悪さ、そして哀れみを引き起こしてしまいます。私は、皆が笑わない事に戸惑いました。そして、そうした社会のわだかまりは、歴史、言葉や文学、障害と共に生きる事への誤解や情報不足などから、少しずつ影響を受け、時間をかけて形作られてきた事がわかったのです。本書は、まじめな課題にユーモアで取り組みました。何故なら、異なる視点から生活を眺める事で、肩の力を抜く事ができ、本当の楽しさを感じられるからです。 

詩集 伝えるべき瞬間   篠原 豪

篠原 豪(しのはら たけし)197322日生まれ、出身:徳島県 血液型:B型 趣味:映画鑑賞、音楽鑑賞、スポーツ観戦、詩、パソコン。現在、筋ジストロフィー症のため療養生活中。これまで長年にわたり氏を通じて、県内の公募や作品展に投稿したりサークルなどの活動を地道に続けてきました。それは指名でもあり自分らしく生きる術として、詩で表現することに魅力を感じたことに他なりません。でも、ここ数年の自分は物足りなさが募り、何か刺激的になる物を追い求めていました。そんな時ネットで自分の作品を出版させてくれる会社を探し、審査を経て夢にまで見た「書店流通型出版」として全国展開の扉が開けられることになりました。今まで気持ちを切らさず詩に携わってきた甲斐がありました。 

お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい  向野 幾世

この本は、1978年サンケイ出版から発刊された復刊である。「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」と、物言えぬ幼い生命が叫ぶしかないような状況であった。四半世紀のときが流れ、いや、ただ流れたというよりは、むしろ紡いできたというべきである。本人たちはもちろん、親、関係者心ある人たちのうめきも悲しみも無駄も失敗も織り込みながらの月日であった。“最も弱いものを、ひとりももれなく守る”という強い願いを確かめ合ってきた。その人がいかなる姿であってもその人には生の使命があることにも気付いた。
ごめんなさいね おかあさん ぼくがうまれて ごめんなさい ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくはいう ぼくさえ 生まれなかったら かあさんの しらがもなかったろうね 大きくなった このぼくを 背負って歩く悲しさも 「かたわな子だね」とふりかえる つめたい視線に 泣くことも ぼくさえ 生まれてこなかったら

めざしのジョニー   福角幸子:作  かわぐちいつこ:絵

母は脳性まひの障害をもつ私の子育てに精一杯で、小さい頃から絵本の読み聞かせをしてもらえませんでした。そのため私はあまり絵本となじみがなかったのです。ですから今回、そんな私が絵本を書くことになるなんて思いもしませんでした。私は幼い頃から消極的な性格もともなって、周りの人たちに当たり前のようにできる日常動作がなぜ私にはできないのかという疑問を感じ、物事を否定的にとらえていました。しかし、心のどこかにそんな自分を変えたいとも思っていました。高校卒業後、様々なことにチャレンジ。そして結婚後、友人と主人の勧めで、奈良にある「わたぼうし語り部学校」に入学し、「語り」と出会ったのです。この語りを通して、私は自分の最も苦手とする部分を自信に変えることができたのです。「語り」を通じて自分を知ってもらえる機会を得ることができ、人と関わるのが楽しみになりました。積極的にもなりました。たくさんの人たちから助言を受け、障害をもっているからこそできることを見出せるようになりました。絵本の素晴らしさにも気づくことができました。私は、私の経験と重ね合わせて、一つひとつのものや生命の大切さを人間以外の視点から描いてみたいと思いました。なぜなら、日々変化するものだけが大切なものではなく、目に見えて変わらないものにも歴史と、思い入れがあり、大切だと私は思っているからです。 

キミが見えなくても 流田まさみ @

高校時代に片思いをしていた悦郎に再会した瑞穂。ところが彼は事故で失明していて……。盲目の彼との泣けるほど切ない純愛ストーリー。

桑田よ 清原よ 生きる勇気をありがとう  元PL学園野球部 清水 哲

著者は、1966年大阪生まれ。小学生のころよりプロ野球選手に憧れ、野球漬けの毎日を送る。名門PL学園入学。高校3年の春と夏、念願の甲子園出場。“ラッキーボーイ”として、常勝PLの原動力となる。1つ年下の桑田・清原と共に日本高校野球選抜選手としても活躍。卒業後同志社大学に進むが、大学1年の公式戦で首の骨を骨折。一命は取り留めたものの、首から下の自由を奪われ寝たきりの生活を送る。口にくわえた鉛筆でワープロのキーボードを叩き、書き留めた原稿をもとに本書は出版された。桑田・清原の頑張っている姿を見ると、「負けてられへん!」そんな気持ちが湧きあがり、自立生活の道を歩き始める。 

キミが見えなくても 流田まさみ A

事故で失明した悦郎のそばにいる決意をした瑞穂。お互いを理解し愛を深める2人の前に、生まれつき目の見えないピアニストの少女・実が現れて…。

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しんちゃん 【筋ジストロフィーの慎大郎君の日々】 写真 菊池和子

彼自身の持つ個性・体内時計はまる大河の流れるごとくゆったりと静かに流れ、この忙しい現代に「何もあわてる必要はないよ!」と明るく訴えかけてくれます。難病に対する悲しさ・悲惨さのかけらもなく、人間が成長する事とは、一体どういう事かを我々に教えてくれます。親が子どもを教育する以前に、我が子から課題を与えられ、考える毎日です。この写真集は、そんな慎大郎を的確にとらえたものと信じています。一人でも多くの人にこの病気を理解して頂き、一日でも早い治療法の発見の一助になればと願っています。

そよかぜの絵の具   築地美恵子:画・文

1964年生まれ。6歳より洋画家の羽田重亮氏に師事。12歳で油絵を始める。24歳、丹沢山中で沢登り中、15m転落。首の骨を折り四肢麻痺となる。受傷後8ヶ月、口にサインペンをくわえ絵を描き始める。世界身体障害者芸術家協会に所属。作品は各地で展示されている。 「本当に家では無理なのか、施設に入れる前に一度は家に連れて帰って、できるところまで私たちが世話をします!」在宅生活は無理だと口を揃える周囲の反対を押し切って私を引き取り、私の生活を支え続けてくれた両親と、子どもだからといって手を抜くことなく、幼い私にも本物の美と描くことの楽しさ素晴らしさを息遣いのうちに伝えてくださった洋画家の羽田重亮先生にこの本を捧げたい。

リーサのたのしい一日(乗りものサービスのバスがくる)
                文 マーツ・フォーシュ 写真 エリア・レンピネン

リーサは、ニ分脊椎症という病気をもって生まれました。リーサは足の痙攣と麻痺のよって全くい歩くことができません。スウェーデンで暮らすリーサが、毎日どのように過ごしているのか、ちょっとのぞいてみてください。

ちえちゃんの卒業式  写真・文 星川ひろ子

わずか715グラムの小さなあかちゃんだったちえちゃん。
つらいことも、うれしいことも、みんな栄養にして、ずいぶん大きくなりました。
「ちえちゃん、卒業おめでとう心配そうなお母さんからの、巣立ちの時でもありますね。
「お母さん、かぜになって

翼を広げ始めたちえちゃんのために、たおやかな風になってください。 

わたしだって、できるもん!  リンダ・リレヴィーク: シェル・オーヴェ・ストールヴィーク:写真  井上勢津::

本書はダウン症の少女クリスティーネの成長を追いかけた3冊の写真絵本を全訳したものです。本書では、原著の3部構成を活かして、3部構成として1冊にまとめました。1部では幼稚園に通うクリスティーネの生活、2部では北ノルウェーの雄大な自然の中で繰り広げられるキャンプの様子、そして3部では小学校に入学してからクリスマスまでの5ヶ月間がそれぞれ描かれています。写真と文章でで綴られるクリスティーネの日々の暮らしは、まさに私がノルウェーで経験してきた、障害をもつ子どもたちの日常生活そのものでした。人と人が共に生きていくことの心地よさ、そして、クリスティーナの笑顔を一人でも多くの方々と共有したいという思いが、私を翻訳という大きな仕事に駆り立てたのです。 

いのちの時間  山田富也  寛仁親王  澤地久枝 聴き役 斉藤 武

仙台市に障害者の自立ホーム「仙台ありのまま舎」がある。筋ジストロフィーを患った山田三兄弟(寛之、秀人、富也)を中心に、障害者が人間らしく生きる道を目指す運動体「ありのまま舎」が生まれ、その延長上にホームは誕生した。1987年の事である。さらに病状が重くなった障害者の為に、十分な医療と充実した時間を維持する目的で、難病ホスピス「太白ありのまま舎」の発足を見た。寛之、秀人はもういない。残された富也さんを中心に活動は続けられている。社会福祉法人になったものの資金は十分でなく、車椅子の人々は、街頭へ出かけ啓蒙活動と募金活動を行なっている。「ありのまま舎」の活動を物心両面で支えてきたのは、総裁である寛仁親王である。たび重なるガンの手術の後もその活動は変わらない。二人ともぎりぎりのいのちの時間を生きながら、ジメジメしたものを見せない。その生きる姿勢を障害者問題と絡めて存分に語ってもらった。 

希望とともに生きて  難病ホスピス開設にいたる「ありのまま舎」のあゆみ 日野原重明 山田富也 西脇智子

筋ジストロフィー症患者が45歳を超えて生き続けることは、現代医学の中でも極めて例外と言えよう。生死の境を越えて今も行き続けられている難病患者の山田富也さんが、まさに西の空に沈まんとする太陽の茜色の輝きにも似た光を放ちつつ、読者の皆様に病床から最後のメッセージを送り続けられている。この驚くべきバイタリティーを持つ病者の声に、一人でも多くの方が耳を傾けて欲しい。本書は、富也さんが命を捧げて作られた「ありのまま舎」の歴史を公開する書である。

ふしぎふにゃふにゃフランケン  近藤雅則 企画・原案  立花尚之介 作・絵

絵本の原案『あたまの中のお話』は、実際にあった出来事を基にしています。脳障害の後遺症で手足がうまく動かない、そうしたハンディを持つ近藤さんが、子どもとつきあうなかで、生まれて来たものです。人は障害を持つ方に理解を示し、その方の人生に寄り添う形で、手を差し伸べもするでしょう。しかし、重い十字架を背負う本人にすり替わる事は出来ないというのも、又事実なのです。この差は大きく埋めようがありません。近藤さんが足でワープロを打って作った企画書は、15ページにもわたるもので、大半が後遺症についてかかれており、5,6歳児が楽しむ絵本には難しかったのが事実です。そこで、幼い頃の自分自身に重ねて話を展開する事で見切り発車の絵本製作となりました。 

知行とともに  ダウン症児の父親の記  徳田 茂

障害児の父親として生きてきて、本当によかった。つくづく、幸せな20年あまりだった。知行に感謝し、これまでに出会った多くの人々に感謝している。知行がダウン症だと知った時、私は深く絶望し、自分は人生の敗北者だ、と思ってしまった。大学生の頃から障害者問題について考え、卒業後も障害児・者の施設の指導員として働いていた自分の中に、障害者を差別する心があったのだ。なんとおぞましいことか。自分の中に潜んでいた醜い心を目の当たりにし、私は情けなかった。恥ずかしかった。しかし、差別の心に気づいても、すぐにそれをなくすことはできなかった。それほど、私の差別心は根が深かった。幸いにも知行は明るく無邪気で、その知行に救われ助けられて、私は少しずつ自分の気持ちを整理していくことができた。自分の差別心と闘いながら、私は、彼とともに生きる道を歩み始めた。それは、私なりによりましな人間になっていく営みを始めることであった。 

運命のオーディション S・シュリープ作 久米 穣訳 むかいながまさ絵

この作品の原題は、「耳の聞こえない少女の贈り物」です。アメリカの作家S・シュリープさんが、自分の娘と友だちをモデルに書いたものです。メアリーウッド中学校で毎年公演されるミュージカル。主役を夢見るエリザはスランプに陥りオーディションをあきらめてしまします。そんな中、エリザの大親友耳の不自由なルーシーがみなしご役のオーディションを受けるのでエリザに歌の指導を頼みます。無論音は外れっぱなし。さて、感動の結末とは?

ぼくは海くんちのテーブル  西原敬治 文     福田岩緒 絵

私たち家族は海の障害を「やむを得ない現実」として受け入れるという姿勢から、「障害児と暮らすことによってしか得られない喜びや幸せ」を貪欲に求めるという姿勢に、徐々に変わってきました。そして、それを常に励まし続けたのは、自分のあるがままの生を精一杯生きようとする海の姿でした。街角ですれ違った人から「大変ですね」「がんばって」と声をかけられる事があります。そんなとき、命そのものの海と暮らせる喜びを、多くの人に伝えたいと思います。そんなとき、「この子は、君と同じように喜んだり悲しんだりしながら、充実した毎日を送っているんだよ」と伝えたいと思います。そんな願いからこの絵本は生まれました。 

ママがんばって  ―ドキュメンタリー育児コミックー みずの圭

このマンガの特徴は、障害児が美化されたり感動的に描かれたりしていないところで、それは珍しいことではないかと思います。そしてこんなに当たり前に、普通の女の子としてりのちゃんが描かれているのは、やはり作者が障害児のお母さんだからだと思うのです。みずのさんもきっとりのちゃんと共にいてたくさんの事に気づかされながら新鮮な毎日を生きていることでしょう。その様子はマンガの端々から読み取ることができます。そしてその生き生きとしたエネルギーは読者の皆さんの日常にも力となるのではないでしょうか。 

身体障がい

マンガの中の障害者たち −表現と人権−  永井 哲

「知ってる?僕らろうあ者の事を描いた、こんなマンガがあるんだよ」「ね、あのマンガ読んだ?障害者の事を描いてるけどさ、障害者自身から見たら、な〜んかヘンだと思わない?」この本は、マンガを引用しながら、そういうお話を書いた本です。ろうあ者とは、耳が聞こえない人々のことですが、聞こえない人々の中でも特に手話で話し合う人々が「ろうあ者」と呼ばれています。ろうあ者の場合、聞こえないということから発音が苦手で、話せないって人が多いのです。聞こえないけれど話せることを強調したい時には「ろう者」という言い方をする時もあります。ろうあ者とは別に、「難聴者」と呼ばれる人々もいます。難聴者の場合には、手話で話す人もいますが、筆談、読唇などの方法で話す人もいます。こうしたさまざまな耳の聞こえない人々はまとめて「聴覚障害者」と呼ばれています。また、「話せない」「発音が苦手」という人々は「言語障害者」と呼ばれています。さて、僕自身、耳が聞こえません。そんな僕は、マンガには特別な思い入れがあります。字幕のないテレビは分かりません。学校では友だちの会話にもなかなか入れません。そうした僕にとって、マンガは一番の情報源であり、さまざまな夢の詰まった世界だったのです。先行されていた研究者に習って僕も「聴覚障害者の登場するマンガ」をすべて集めてみました。そして、僕なりの批評を加えました。きちっと理解してかかれたもの、偏見、時代、色々なものが見えてきます。

おんちゃんは車イス司書  河原正美 原案  梅田俊作 作・絵

河原正美さんは1948年福井生まれ。4歳の時、小児リウマチにかかり、以後車いすの生活。この絵本の大もとになっているの「車いす司書ハート貸し出します」という本でした。出版記念会のゲスト梅田俊作さんとの出会いから、この絵本は生まれました。司書になって25年が経とうとしています。車いすで仕事を続けてこられたのは、上司や同僚のおかげですが、心の支えになってくれたのは、図書館に来る子どもたちです。はじめは差別と偏見に満ちた目で私を見ていた子どもたちも、しだいに氷が解けるように私の懐に飛び込んできてくれます。この絵本の中のマサフミのように…。その喜びは、私にしか経験できない宝物です。いま、自己肯定感を持てない子どもたちが次々と悲惨な事件を起こしています。この絵本が、自分を好きになり、他の人を大切に思えるきっかけになれば、こんなに嬉しい事はありません。 

わたしたちのトビアス学校へいく ボー・スベドベリ:文・写真 オスターグレン晴子:訳 トビアスの兄姉たち:絵

ダウン症のトビアス。「特別な子」として大切に迎えられ、温かい愛情で育てられています。そして小学校に上がるトビアスと一緒に家族も、嬉しいいことや悲しいこと、さまざまなできごとを通して成長していきます。そんなスベドベリ家の歩みと、やわらかな心に触れる時、人には色々な生き方があるのだということに、改めて気づかされます。 

夢 追いかけて  全盲の普通中学教師 河合純一の教壇日記    河合純一

静岡県の西、浜名湖の太平洋側にある小さな町・舞阪町の中学校に勤務して三年目を迎えた。これは、全盲の僕が、教師としてどのようにして過ごしてきたかを、ありのままに綴ったものである。僕が授業をするのに欠かせないのは、いつもの点字の教科書や資料集と「プレルライト」という小型コンピューター(点字で電子手帳)である。情報機器の進歩は、大変有り難い限りである。しかし、僕が生徒たちと授業や学級活動、部活という学校生活を成立させるために最も基本的で重要なものは、会話である。会話という声を掛け合うこと、声に含まれている感情や表情を通してその生徒一人一人の個性を見つけ励ましていく。僕が歩いていると、近づいてきて手や肩を貸してくれる生徒のやさしさ。この人間同士のぬくもり、ふれあいに、僕は教育の原点を見る気がする。 

プーンの冒険  エリザベス・ベスフォルド:作  山本けい子:訳

プーンは、生まれつき耳が悪く、補聴器をつけています。プーンのことというと、家族は、はらはらし通しで、くたびれ果てています。なにしろ、プーンは、とってもわがままなのです。学校休業中、プーンを一人で田舎に泊まりに行かせることにしました。そこには、プーンと同じように、お父さんのいないディックとバニーの兄弟が、プーンが来たら意地悪をしてやろうと待ち構えています。でも、乱視のディックもヘマばかりしているバニーも、とっても愉快な子たちでした。牛泥棒事件に巻き込まれたり、貴重な石器を発見したり、プーンは色々な冒険をします。二人の男の子との暮らし、鶏や牛、特に犬のヘンリーとのふれあいは、わがままなプーンを思いやりのある子に変えて生きます。体の不自由な人が、求めているのは何か、私たちはどうしてあげたらいいか、この愉快な物語は教えてくれます。 

聴導犬・美音がくれたもの 赤ちゃんを育てた柴犬のお姉さん 松本江里・作 しおやしんいち・画

私は23歳でほとんどの音を失った。それまで、聞こえることがあたり前に育ってきたのに、ある時から目の前で起こっていることすべてが、ボリュームを消したテレビのように「音なし」になってしまった。「音が聞こえないこと」は不便だけでなく、とても怖いこと。何事に対しても、後ろ向きに考えてしまったり、最初からあきらめてしまったり……。そんな私の背中を支え、前に押し出してくれたのは、私の周りにいた家族や友人、そして、聴導犬の美音だった。

わたしたちのトビアス セシリア=スベドベリ:編 トビアスの兄姉:文絵  山内清子:訳

5人の子どもを持つセシリアが、障害(ダウン症)を持つ末っ子を本当に愛し、上手に構成した本を出した。4人の子どもたちは、弟が障害児だと言われた時の反応を、無邪気な絵と文で書き表している。胸を打たれ心温まるのを覚える。この本は、また、障害児への個人的、社会的な恐れに対する抗議であり、普通の健康な人や社会が、障害児へ手を差し伸べるようにという訴えでもある。“子どもは、みんな一緒に遊び、お互いに理解しあわなければならない。” 

神さまに質問  栗原征史   筋ジストロフィーを生きたぼくの19

神さまがこの世に存在するのなら、一言だけあって聞きたいことがある。それは、父と母の親戚の中で、今まで一人も障害を持って生まれた人がいないのに、なぜ僕一人に、筋ジスという試練を与えて下さったのか聞きたい。夢の中でもいいから答えて欲しい。でもそれは不可能な事だから、自分なりに考えてみた。きっと神様がこのお母さんだったら、その子を育てられるという自信があったから、お母さんに選ばれたと思う。選ばれた僕は、生きるという命の大切さを社会の人たちに、教えることを神さまが与えて下さった使命だと思いたい。障害者は、社会が忘れていることを思い出させるために、神さまが派遣されたのだと思う 

野 菊   川原で会った少年のなぞ  佐藤州男/作  酒井臣吾/

私自身がこの物語の純一君と同病名の筋ジス患者で、車いす生活を送っています。宇宙物理学のホーキング博士もALSという難病ですが、彼を見ていてわかるように、難病患者たちのほとんどは、強く明るく生きようとしています。できるだけ、多くの人と交わりたいのです。さて、障害者や病人と深くつき合えば、どうしても相手を世話したり補助したりしなければなりません。これはかなり厄介なことです。自分ばかり損をすると思われるかもしれません。しかし、実際にやってみると、決してそうでないことに気づくはずです。世話をするほうが一方的に損で、世話をされる方が得をするのかというと、決してそうではないのが、人間の絆の不思議なところです。 

五体不満足  乙武 洋匡

―五体満足でさえいてくれれば、どんな子でもいい− これから生まれてくる子どもに対して、親が馳せる想いはさまざまだろうが、最低限の条件として、このような言葉をよく耳にする。だが、僕は、五体不満足な子どもとして生まれた。不満足どころか、五体のうち四体までがない。そう考えると、僕は最低条件すら満たすことのできなかった、親不孝な息子ということになる。だが、その見方も正しくはないようだ。両親は、僕が障害者として生まれたことで、嘆き悲しむようなことはなかったし、どんな子を育てるにしても苦労はつきものと、意にも介さない様子だった。何より、僕自身が毎日の生活を楽しんでいる。多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、何一つ不満はない。そんな母も、「胎児診断でもし子どもに手足がないと分かっていたら、あなたを産んでいたかどうか自信がない」と言う。だからこそ言いたい。「障害をもっていても、僕は毎日楽しいよ」と。健常者でありながらふさぎ込んだ暗い人生を送る人もいる。関係ないんだ、障害なんて。タイトルを見て不愉快に思う人もいるかも知れない。しかし、そういった僕の意図に、理解を示していただければありがたい。 

見えず(ベーチェット病)感じず(頸椎損傷)全身うごかず(筋ジストロフィー) ありのまま舎

ノーマライゼーション、バリアフリー、介護保険など「障害」者問題や福祉問題に関する用語や話題が日常的に語られるようになり、その理解も進んでいる。しかし、本当に理解したと言える状況と言うのは、そう簡単に作り出されるものではない。制度や物理的改善、見た目の対応と違い、同じ「障害」「難病」でもその内面的部分や目に見えない細かなところで、日々悩み苦しんでいる人は多い。本当に理解するためには、まさしく内面的な部分や目に見えない苦しみを知る必要がある。この対談のきっかけは、そうした部分を伝えたいというところにあった。

あなたは私の手になれますか  心地よいケアを受けるために 小山内美智子

なぜこの本を書こうと思ったのか。それは私が生まれながら手足に障害を持っており、人の手を借りなければ生きていけない立場にあるからだ。しかし、泣き言でもなく文句でもなく、どうしたらうまくケアを受けて生きていけるか。また、発展的に生きていけるかということを書き綴りたい。43年間、どれだけの人に髪をとかしてもらったか、お尻を拭いてもらったか、数え切れない。ケアを受けて生きるには、時にはプライドを捨て、時には頑固に意見を通さなければならない。この世の中には、数多くの障害名や病名がある。ひとつの障害名を聞いて本を読み医師のアドバイスを聞いても、それだけでその障害を理解したという思い込みケアをするのは危険である。ケアをする手は常に新鮮であり、真っ白なキャンパスのようであって欲しい。自分の介助者の教師は自分しかいないのであるから。 

神様からの贈り物  土屋竜一

筋ジストロフィーの進行で、4年前に気管切開。以来、人工呼吸器が欠かせない。その後結婚,在宅生活を続けている。そんな僕に、2001年秋、コウノトリが宝物を運んできた。娘の名は美音。我が家では、第一子で初孫。家族それぞれが扱いに戸惑いながらも、力を合わせて子育てを繰り広げている。こんな明るい毎日が待っていようとは、かつての僕には思いもよらず、親の自覚がこんこんと沸きあがってくる。しかし、どうしようもなくさびしい部分、声も出ず、指先がちょっと動くだけの自分に、父親としての役割が果たせるのだろうか。そんな僕の苛立ちを、妻は「あなたにできることをすればいいのよ」とたしなめ、ベットに寝ていた僕の胸の上に、美音をそっと寝かす。そうするとどうだろう。それまでむずかっていた美音が、すやすやと眠り始めた。僕にもやれることがあったのだ。家族の協力さえあれば、工夫次第でいくらだって子育てに参加できる。父親としての役割は充分には果たせないだろうけれど、精一杯の愛情を娘に注いでやりたい。美音は今夜も、僕と一緒にベットで寝ることになっている。そう、添い寝である。 

さっちゃんのまほうのて  たばた せいいち 先天性四肢障害児父母の会 ・のべあきこ・しざわさよこ・

生まれつき左手指のない私にとって、結婚をして子どもを産む事は夢のまた夢、そう育てられました。母は21歳で初めての子を産み、その子に左手指の無い事を知り、これから先どう育てるか、悩み考えた末、一人で生きていける経済力を身につけさせる事と、結婚はであきないと思わせる事を幼い頃から言い聞かせていました。けれど、私は母がガンでなくなる半年前に結婚し、子どもも産みました。母となった喜びで、この先この子どもにどんな重い心の悩みが来るのか予想もできませんでした。娘が2歳を過ぎた頃、突然、「お母さんの手お化けみたい」と言ったのです。あまりのことに悲しくて娘を抱いて泣きました。その時から、娘や友人たちに何とか私の障害を上手に伝える方法はないものだろうかと考え、悩んだ末、絵本の形で幼い子どもたちに手渡す事ができたらと思うようになりました。 

 キミが見えなくても 流田まさみ B

目の見えるわたしと、目の見えない彼との恋。
やっぱり無理なの?わかりあえないの?彼の世界を共有できるのは、同じ目の見えない世界に生きる彼女なの? 覚悟の恋に、次々降りかかる辛いできごと。でも、泣けば泣くほど、あなたへの愛が強くなるばかりです。

泣いて、笑って、ありがとう     海老原けえ子

宏美が脊椎性筋萎縮症と宣告された24年前、宏美と共に重い十字架を背負い、出発した頃を懐かしみながら書き出しました。15年前から20年前の義務教育の現場は、障害児が入学をする条件として、母親が送迎と学校生活の介助を余儀なくされる時代でした。たとえ親子でも、娘に対して一歩距離を置き、車椅子の娘の人間としての権利と尊厳を重視し、時には、「義務教育の現場に母親が付き添うのは、人権問題ではないかと」と訴え、闘いながらでした。宏美が大学を卒業したと同時に、私は23年間の送迎の役割を終えました。空虚感で自律神経失調症にでもならないかと心配されましたが、マンドリンを習う機会を得て、母親としての私から海老原けえ子として生きていく術を見つけました。その頃から、子育てのシーンがとめどなく沸きあがり、一気にエッセイを書き出している私がいました。娘の難病を知らされた時、変えられない現実を受け入れるしかない状況から、少しずつ、今までの自分を見つめ直しました。長年身のまとった垢をきれいに洗い落とし、生まれ変わった自分を感じました。だから私は幸せ者です。 
 もちろん返事をまってます ガリラ・ロンフェデル・アミット 作 母袋夏生 訳 安藤由紀

小学校5年生の少女ノアは、車椅子で養護学校に通う少年ドゥデイと文通を始める。やがて、「会いたい」と書くノアを、自分の姿を見られたくないドゥディは拒絶する。「ドゥデイの家を訪ねて欲しくないのね。OKです。訪ねません。私が会いたいって言うたびに怒るのね。OK。もう言いません。だけど、それでどうなるのかしら?私の手紙は、わざとらしくなるはずです。ひとこと書くたびに、ドゥデイを傷つけやしないか怒らせやしないかって、10回も迷うからそれでいいの?」明るいノアの率直な言葉がドゥデイの心を開いてゆく。イスラエルの人気作家G・R・アミットの代表作

ノエルのおさんぽ   るりこ・デュアー 文  たかはし みちこ 絵

ノエルが、神経障害、脳障害の為、手術の方法はなく、一生治らないと診断された時は、自分に対する罪悪感でいっぱいでした。それまで、何事もそれなりにこなし、キャリアウーマンを自負し、どちらかというと傲慢な人生を送ってきた自分を責めた時期もありました。しかし、そんな私を、有り難い事に、たくさんの方々が助けてくれました。リハビリにもよく通いました。おかげで、奇跡的に失明は免れ、視力も回復してきました。右半身の麻痺もずいぶん良くなってきています。ノエルの障害を通じて、今まであたり前に思っていた事が、とても新鮮に感じられるようになりました。些細なことにも感動するようになりました。実は私が一番治療されたのかもしれません。この絵本を誰かに読んでもらう子どもたちが、将来何の抵抗もなく自然に、自分と違う人たちを理解でき、普通に受け入れられるようになればいいなと思います。

ママがんばって Part4 ―ドキュメンタリー育児コミックー みずの圭

りのちゃんは2年生になりました。2年生になったので本当なら教室は2階になるはずでしたが、学校の配慮で今年も1階の教室のままでいいことになりました。いまの学校の持っている問題点の内の一つは、子どもたちを集団として取り扱ってしまい、その結果一人ひとりへの個別の配慮が十分でないということですが、ここではりのちゃんにたいして細やかな配慮が働いたわけです。さて、新設の学校には、エレベーター設置が常識になっていますが、既存の学校にエレベーターを設置するとなると、とてつもない高いハードルがあります。少数の障害児のために設置することについて予算効率を前面に行政は出してきます。ダムなど他にたくさん無駄はあるのに、エレベーター1基の設置を無駄といって切り捨てます。確かに障害児は少数派ですが、骨折してギブスをつけて登校する子どももいるし、腰や膝が痛い先生もいるかもしれません。エレベーター1基が共生社会への一歩のように思えるのです。 

ちがうことこそええこっちゃ 被災障害者支援「ゆめ・かぜ・10億円基金」事務長 牧口一ニ

20年近くも「ちがうことこそばんざい(ええこっちゃ)」と言い続けてきた。この言葉はボクの信条でもあるとともに、障害者解放運動のスローガンでもある。根性が大嫌いなボクが「ちがうことこそええこっちゃ」に込めた思いは、他者から何かを強いられる事でも、他者に何かを強いる事でもなく、ありのままの自分を認めて欲しいって事だった。

もも子・ぼくの妹    星 あかり 作  石倉欣二 絵

もも子、聞こえるか、みんなの声が。ああ、がらがら声が聞こえる。もも子が歌っている。1組のみんなと一緒に歌っている……。からだに障害があり、鼻からチューブを入れ酸素を送っているもも子。「かえるの歌」を歌うときげんのいいもも子。天真爛漫で、誰からも好かれているもも子。突然、9歳で遠くへ旅立ってしまったもも子もう2度と生きてかえることはない。双子の兄・力が、妹もも子をいとおしく語る、感動の物語。 

ママがんばって Part2  ―ドキュメンタリー育児コミックー みずの圭

りのちゃんと恵さんの泣き笑いドラマ、その第二章がたくさんの拍手に迎えられての登場です。今度も恵さんの明るさはそのまま、りのちゃんもとても元気で、読者に力を与えてくれる作品になっています。それにしても、障害児の保護者なら大抵の人が一度は経験するだろう迷いや悩みが率直に描かれていることに驚かされます。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、これはマンガという表現形式の勝利といってもいいのではないかと思います。脳性麻痺の様な身体障害児にとって、専門家の間でよく問題になるのが、訓練優先か、集団の中での社会生活が優先か、ということがあります。私は、訓練をしても障害がなくなることはありませんから、障害を受け入れて、障害があっても不自由なく生きられる社会を作っていく姿勢を持つことも大切だと思います

 ダンシングライフ 三上晶世

著者は北海道生まれ。21歳の時に両下肢麻痺になり車椅子生活を余儀なくされる。幼少の頃から慣れ親しんだダンスを活かし、長野パラリンピックの開会式に参加するが、体調を崩して低酸素脳症になり四肢麻痺、言語障害などに。その後克服し、パラリンピック出場を目指して車椅子ダンスを特訓中である。絶望のどん底。神は私に何を伝えたかったのだろうか。それは「自分の周りに対するものの見方、心の見方を変えなさい」ということではなかっただろうか。身体の自由がきかなくなって初めて見えてくるものがあった。同じように苦しんでいる人には「あきらめないで。可能性はいくらだってある」という事を伝えたい。

魚になれた日  筋ジストロフィー青年のバークレイ留学記  貝谷嘉洋

障害を持つ人々は、病気でも悲劇でもない。一つ彼らが必要ないものがあるとすれば、それは哀れみである。
(自立生活運動の父:エドワード・V・ロバーツ) バークレイやデンマークの筋ジストロフィーをもつ多く人々の多くを見ていると思う事があります。「明るく生き生きとした顔」をしているという事です。筋ジストロフィーは確かに重度の障害ですがそのような人々でさえも可能性を生かして自己実現をはかっている姿、また「障害者を受け入れる社会」そのものの力強さを感じるからです。彼らはまさに「病気でも悲劇的」でもありません。社会の「哀れみ」を受けて暮らしているのでもありません。
 

ママがんばって Part3 ―ドキュメンタリー育児コミックー みずの圭

ママがんばっても三巻目になります。りのちゃんは小学校に入学しました。りのちゃんのように障害をもつ子どもは、養護学校、特殊学級、普通学級と色々なところに通っています。大きく分けて、障害児だけを集めて教育する特殊教育と普通学級で障害児と健常児が一緒に学ぶ統合教育があります。世界的な流れは統合教育に向かっています。分けて教育すれば、どうしても差別が生まれるので同じ場で学ぶのが大切と考えられるようになってきているからです。しかし、日本では「障害児には特殊教育がよい」という考え方が強く、りのちゃんの様に普通学級で学ぶことは難しい状況です。大人になって初めて障害を持った人に出会うどう接したらいいかわかりません。りのちゃんの友達は自然にりのちゃんを受け入れ、多くのことを学ぶでしょう。彼らは幸せな子ども達です。 

山田富也   透明な明日に向かって   

生まれながら、筋ジストロフィーを背負い、重度の障害を生きて32年。この難病が世に知られなかった時代に、その悲惨…空しい青春・生の苦痛・死の恐怖を泣訴し、更に難病そのものに対する理解と難病解決の悲願を訴えつづけた。最近、ようやくこの難病も世に知られ、社会的にも注目され政治的配慮がなされるに至ったことは、彼らの決死的努力、血と汗と涙の収穫である。

夢をつなぐ  全盲の金メダリスト 河合純一物語   澤井希代治

1996年、アトランタパラリンピックで日本選手団は14個の金を始めとして、合計37個のメダルを獲得した。これは、アトランタオリンピックでの金3個を含む14個のメダルをはるかに上回るものだ。しかし、日本国内でこのパラリンピックの模様が大会の進行と同時に紹介されることはほとんどなかった。私は、このアトランタパラリンピックに生で接することができた。河合純一の応援にジョージア工科大学のオリンピックプールに行ったのだ。そこで見た光景は、衝撃的であえあった。体にさまざまな障害を持つ選手たちが、全力で泳ぐ。精一杯応援する観客たち。プールだけではない、バスケットコートでも、陸上競技場でも選手たちの真剣な戦いが繰り広げられていた。その姿は、「私たちに障害があるからといって、特別扱いはしないで欲しい。私たちにも、全力でスポーツをする機会をもっと与えて欲しい」と言っているようであった。 

風の旅人  牧口一二:原作・監修 多比良建夫:脚色 新谷知子:作画

宇都宮辰範君が他界して14年、彼の墓に参ってきました。この冊子の制作にあたり、どうしても遺族の承諾が得たくて実家をお訪ねしたのです。お父さんとお姉さん(5歳上)、そして叔母さんとお会いでき、彼の想いで話にしばし時を忘れたのですが、お母さんが7年前に亡くなられていたのは心残りでした。さて、「他人に迷惑をかけるな」は人間社会のほぼ疑いのない共通ルールです。けれど障害者の場合は、絶対にかけてはならない迷惑、かけたくない迷惑、許される迷惑、かけたほうがいい(かも)迷惑…を考えながら生きています。「自立」についても、他者の力を借りると世間では「自立できていない」となりますが、実は他者の力を借りる(迷惑をかける)と、自力では不可能なことも可能になり、どれだけ世界が広がるか計り知れません。この考え方に共感する若者たちが増え、スケールのある、ゆったりとした人生を歩んでくれますように。 

いつくしみの視野 全盲ママの愛と感動の育児記録  曽根富美子   取材協力/甲賀佳子

主人公 甲賀佳子さんは1958年生まれ。先天性緑内障のため18歳で全盲に。和光大学卒業後、東京都心身障害者福祉センターで電話交換手を務める。‘90年に甲賀金夫氏と結婚、93年日本点字図書館に活動の場所を移す。現在3人の子どもの母親である。視覚障害を持つ母親が、育児に疲れ、我が子を窒息死させるという事件から、見えなくても前向きに子育てを考え会うための会「かるがもの会」を主宰。夫や周りの人を巻き込んだ、豊かな人間関係を気づき上げて行くように努力している。何かをするにしても人一倍のエネルギーが必要であるが、そのプロセスが他者との距離を縮め、家族の絆を深めてくれているのを感じる。このマンガを通して、そのような母親の存在をより多くの方に知っていただければ幸甚である。

車椅子の視点 −ヘッドスティックで伝える私の言葉  茉本亜沙子

私は、198010月、中学校の登校途中に、居眠り運転をしていたトラックにはねられ、脳幹部中枢神経挫傷という致命的な障害を負った。脳幹部というのは、体の運動神経や知覚神経の通り道であり、顔面や喉の動きや感覚、また人間の呼吸や循環などの中枢となるきわめて重要な脳の部分である。それによって私は現在、障害者福祉法で一種一級と認定される重度の身体障害を抱えて生きている。四肢の運動麻痺のため、立ったり歩いたりなど、すべての移動動作ができず、車椅子を使って移動する。また顔や口、喉にも麻痺があるため、話すことも食べ物をうまく飲み込むこともできない。だから食事や排泄など身の回りのことについて、介助を受けている。そして会話をしたり字を書いたりという、自分の存在を他人に伝える際に必要なことができなくなってしまったため、唯一自由に動かせる顎を使って、頭にヘアバンドで固定したヘッドスティックでキーボードを打ち、合成の音声や文字によって自分の意思を伝えている。この本は、そんな不条理に出合った私が様々な試練の末、私なりの存在感を獲得し、精神的な自立を成し遂げるまでの過程の記録である。 

愛と孤独と詩(限られた生命の世界で) 難病生活34年・孤高の人生  山田秀人遺稿集

1949年1月16日、山田秀人は福岡県大牟田市で生まれた。兄・寛之は物静かな哲学者肌、弟富也の激しい気性とすぐに行動に移す力は実業家のようだった。その間にあって、秀人は寛之を慕い、寛之に寄り添いながら、湧き出る感性を大切に育んでいた。他の兄弟が、筋ジスの実態を世に知らしめるための運動に傾倒していったのとは対照的に、そのことに一定の理解と関心を示しながらも、決してのめりこむ事はなかった。秀人は兄・寛之が筋ジスと診断された時に、同時に診断を受けている。秀人3歳の時である。それ以来、秀人は筋ジス患者として治療法のない病と共に生きた。その中で、秀人はわずかに残された指先の力でペンを握り、最後まで自分で詩を書き綴った。 

生命(いのち)のキャッチボール 難病と生きる40のメッセージ  ありのまま舎

「キャッチボール」。当初、私たちは、難病や重度の障害を持つ人々とその傍らで生きる人々が、それぞれにお互いを思いやる姿を想像して、テーマを決めた。しかし、集まってくる作品を読み込むうちに、たとえ私達の想像どおりの表現であっても、その奥底にある思いはもっと深く大きいものだということに気がついた。投げられるボールは、ある意味で特定の人であり、ある意味で全ての人に向けて放たれている。多くの人々は、「普通」に呼吸し、「普通」に朝を迎え、「普通」に食事をし、「普通」に生活し、「普通」に眠る。しかし、そのひとつひとつの大変さ、素晴らしさがメッセージとして作品に凝縮されている。

詩集 羅針盤    四方健二

このタイトル「羅針盤」のイメージは、広大な海原を駆ける航海である。目指す場所に向かって突き進む白亜の帆船だ。荒波にも、嵐にも、日照りにも、船体の軋みにさえも負けることの無い雄姿。及ばずながらも、その雄姿を自分自身に当てはめてみた。私は、進行性筋ジストロフィー症のため、長い入院生活を送っている。時の流れは速いもので、入院生活は今年30年を数え、現在は寝たきりの日々を過ごしている。私の人生は常に困難が伴ってきた。しかし、私はこの人生を苦心しながら、葛藤しながらも生きてきた。ポジティブに、人の心を追い風にして。 

弁論は青春だ!  柏崎養護学校筋ジス高等部と弁論大会  柏養弁論部編

思えばこの三年間、僕が最も情熱を注いだもの、それがこの弁論大会だった。実体験をもとに、自分の想いを形にする。それが楽しくて仕方なかった。時にはどう書いたらと悩んだり、自分が何を言いたいのか分からなくなったりもする。でもそれがあるからこそ出来上がった時に充実感を味わえるわけだし、それをクリアすることで新しい自分を発見できる。だからこそ、弁論は楽しい。大会そのものにも大きな意味が存在する。自分以外の誰かに聴いてもらう。そう、弁論というのは、発表しなければ意味がないのだ。発表することで、開放感や達成感を感じるだけでなく、自分にとっての自信にもなるはず。皆自分の主張をしっかりと聴いてくれるから、「僕はここにいるんだ」って事を感じることができる。一つの弁論大会にもその人なりの思いがこめられている。そして、それらは人前に出た時初めて輝くものである。人の輝きに触れるも良し、自らの想いを輝かせるのも良し。これまでともに歩んできた柏養と弁論大会。これからも輝く弁論を楽しみにしている。弁論は青春そのものだ! 
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